古写真と絵図に見る小笠原の歴史 〜無人島が「小笠原諸島」として日本に領有された理由〜

 小笠原諸島は複雑な歴史を持つ島です。
 東京の南、約1000kmに位置する小笠原諸島は「海洋島」という大陸と一度も繋がったことのない無人島でした。
 1830年6月26日にナサニエル・セーボレーをはじめとした欧米系・ハワイ系・太平洋諸島系の約25名の移民がこの島に住み始めました。
 ではどんな歴史があり、小笠原諸島は日本の領有となったのでしょうか。
 いままだ残る古写真や絵図を元に、小笠原諸島の歴史を紹介します。

明治18年に撮影された小笠原諸島父島二見湾全景。小笠原村教育委員会所蔵。

1:江戸時代に「無人島(ぶにんじま)」が発見される

 だが大航海時代の到来により、欧米諸国の船が太平洋を横断する中で小笠原に近づいていきます。
 1543年10月(天文12年9月)、スペインの船長ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスにより、硫黄列島が発見されました。
 ですがその後も永らく小笠原諸島は未知の諸島でした。

 1670年4月9日(寛文10年2月20日)阿波国(現在の愛媛県)の蜜柑船が漂流し母島に漂着します。
 蜜柑船が本州に帰国し、彼らの報告を受けた江戸幕府は1675年(延宝3年)に島谷市左衛門と調査船富国寿丸をを派遣しました。
 小笠原諸島は島谷により調査された情報は古絵図として残され、この島々は「無人島(ぶにんじま)」と名づけられました。

島谷市左衛門調査地図「無人島ノ図」。島原市本光寺所蔵。

2:ケンペルの「日本誌」や林子平の「三國通覽圖説」で小笠原が紹介される

 1786年(天明6年)、日本との周辺国からの国防と海防に危機感を抱いた林子平が蝦夷・朝鮮・琉球などの日本周辺の地理を紹介する「三國通覽圖説」を出版しました。
「三國通覽圖説」の中で、小笠原諸島も「無人島之圖」という名前で発表されました。
 ただ「三國通覽圖説」は鎖国政策をとる幕府の命により、絶版になってしまいます。
 ですがその後長崎の出島を通じて国外に持ち出され、フランスなど外国で翻訳されました。
 「三國通覽圖説」の翻訳やケンペルの「日本誌」の出版により、小笠原諸島の存在は日本国内外に知られるようになります。

林子平「三国通覧圖説」無人島ノ圖。国立国会図書館所蔵。

3:1830年6月26日、ナサニエル・セーボレーたち移住者が小笠原に移住する

 1827年6月(文政10年)イギリス海軍の艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチーが父島来島し、小笠原の英国の領有権を主張するなど国際社会は小笠原諸島の重要性を認識していきます。
 こうした経緯を経て、1830年6月26日(文政13年5月10日)にナサニエル・セーボレーを含む欧米人5人と太平洋諸島出身者20人の合計25人がハワイ王国オアフ島から父島に移住しました。
 無人島に移り住んだ移住者たちは、貿易船や捕鯨船に水や補給物資などを売買し、どこの政府にも属さないコミュニティを形成して暮らしていました。
 1840年11月(天保11年)、陸奥気仙郡小友浦(現在の陸前高田市)の船、中吉丸が遭難し、小笠原諸島父島に漂着しました。
 彼らは欧米系島民たちに助けられ、6人の水夫が63日間島に滞在しました。その後帰国した彼らは江戸幕府に取り調べを受け、その記録は国立公文書館に資料として残っています。残す。資料には当時の住民の姿や建物の様子も絵として描かれていました。

1840年11月、陸奥気仙郡の船「中吉丸」が遭難し父島に漂着。国立公文書館蔵。

中吉丸の船員の取り調べ資料に描かれた当時の住民の住宅。国立公文書館蔵。

4:米国のペリー提督が父島に寄港し、セーボレーから土地を購入する

 1853年(嘉永6年)6月14日〜18日、アメリカ東インド艦隊のペリー提督が、サスケハンナ号に乗り、サラトガ号を従えて父島ロイド港(現在の二見港)に寄港しました。
 ペリー提督はナサニエル・セーボレーから石炭貯蔵地として使用する土地を50ドルで購入しました。
 また同艦隊に乗船していた写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアがダゲレオタイプで島を撮影し、画家ヴィルヘルム・ハイネがスケッチと木版画・石版画で記録を行ったと考えられています。
 これら絵を含む報告書がペリー提督により米政府に提出され「ペリー提督日本遠征記」として出版されました。
 江戸幕府はこの報告書を読むことで、小笠原諸島の重要性に気づきました。

1856年発行「ペリー提督日本遠征記」。アメリカ議会図書館蔵。
当時Bonin islandsと呼ばれた小笠原諸島の太平洋諸島民の村の様子が描かれている。

5:江戸幕府、調査船「咸臨丸」を小笠原に派遣する

 1861年(文久元年)、江戸幕府は外国奉行水野忠徳や小花作助を含む調査隊に命じて調査船「咸臨丸」を派遣しました。咸臨丸の調査隊は島の調査と測量を行い、同時にナサニエル・セーボレーたち島民に小笠原が日本領土であることを確認し、同意を得ました。
 ですが1862年に横浜で起きた生麦事件の影響により、八丈島から来た開拓民を含む全員が1863年5月までに小笠原を引き揚げざるを得ませんでした。
 この期間に大垣藩医、蕃書調所絵図調方出役宮本元道により絵地図「小笠原島真景圖」が描かれ、島の図形や暮らしの様子が記録されました。

宮本元道「小笠原真景圖」。父島二見湾の絵図。国立国会図書館所蔵。

宮本元道「小笠原真景圖」。母島の欧米系島民たちの生活の様子。国立国会図書館所蔵。

6:明治政府、小笠原諸島の日本領有を宣言

 1868年10月23日(慶応4年9月8日)、幕末の動乱と明治維新を経て、元号が明治に変わります。
 1875年11月(明治8年11月)、明治政府は小笠原諸島への領有権を獲得したい英国に先んじるべく、明治丸と調査団を派遣しました。
 この調査団には台湾出兵に従軍した写真師松崎晋二が同行、日本人の写真家の手で初めて小笠原が写真に撮影されました。
 1876年(明治9年)、この調査を元に日本は世界各国に対し小笠原諸島への領有権を主張し、異議なく了承されました。

松崎晋二「ジョセフ・ゴンザレス(ジョン・ブラボー)宅とその家族」。国立公文書館所蔵。

松崎晋二「扇浦に停泊するアウトリガーカヌーと明治丸船員」。国立公文書館所蔵。

松崎晋二「欧米系島民の家族」。小笠原村教育委員会所蔵。

7:まとめ 〜記録と調査の中に残る小笠原諸島の歴史〜

 このように、完全な無人島だった小笠原が日本に領有されるためには、各時代における調査と記録の存在が非常に重要な決め手となりました。
 こうした貴重な資料が小笠原村教育委員会や国立公文書館で保管されています。

 当時の国際情勢や記録に使われた写真に思いを馳せつつ、小笠原の写真を見てみると小笠原の歴史が深く感じられるかもしれませんね。

撮影年不明、小笠原諸島父島洲崎の写真。小笠原村教育委員会所蔵。

撮影年不明、小笠原諸島父島釣浜の写真。小笠原村教育委員会所蔵。

明治18年に撮影された小笠原諸島父島大村地区の様子。小笠原村教育委員会所蔵。